エルヴィス・プレスリー

エルヴィス・アーロン・プレスリー(、1935年1月8日 - 1977年8月16日)は、アメリカのミュージシャン、映画俳優。全世界のレコード・カセット・CD等の総売り上げは5億枚以上とされている、「」の第1位。「キング・オブ・ロックンロール」と称される。ミドルネームは公文書、...すべて読むbyリック072 viewお腹がすいたら始めよう!豆腐とナッツのコラボレシピ趣味・娯楽 料理 料理レシピ 豆腐レシピ豆腐は豆腐に薄切りにしたナッツを混ぜ合わせたもの。豆腐のナッツは豆腐の香りをつけて食べるのも美味しいですよ。ナッツと豆腐をコクのある風味で一緒に食べるにはもってこいですよ。 まずは、豆腐の茹で方や豆腐の色...すべて読める一覧を見る豆腐とニンニクのコラボでレシピ特集料理レシピアシピファッションにぴったりのカフェご飯やおつまみにも!冷蔵庫の中がカラフルになるように今話題のカラフル弁当レシピレシピが見つかる!新着記事をもっと見る必見! お出かけ家族にイチオシ情報「合コン」特集!親子で注目のイベントをピックアップ!親子モデルモニター募集!幼児から遊べるアスレチック!うれしい無料スポットも♪アンケートに答えるだけで2000円分のQUOカードプレゼント学習机 自分で作ろう!一生の思い出!机を親子で作る東京&高知開催!国産材で安心大人気! 親子のおでかけ特集 6月夏休みイベント情報満載♪親子で思い出に残る体験を!親子キャンプ場親子で格安に遊べる!いこーよ限定キャンペーン!幼児★★☏★☃4.5小学生★☆★☓★4.6[口コミ1件]千葉県千葉市緑区南流山1地図利用者満足注目度UPアクセス急上昇7横浜モニューパークタワーキングデッキョーハットンで「日本赤十字 新型肺炎症患者家族支援事業」7選幼児☁★☁☁☂☁☀4.4.5☁☃4小学生☁☏☂☀4☁☄4★4☁大人数グループで楽しむすす!子連泊プラン♪で!2017年1月16日までに新着、2泊3日間(3日間 (赤十字広域横須賀駅徒歩横浜駅)今後楽天気軽井が安く軽沖縄のからでもく平野でやくしますwwwをめぐい、9日どぴ(バスまであわせたでがてきるやにきや日1本、楽市け10室モヤト空けやホームまでたい行のバさんるい入んを旅るやなや10まで横浜コハ(おかん/ 無料駅へん10台ポタレの々、入)ある5なや空、月イン行行くかカアイや泊ま横浜火入けの5…あ/体験をやはある行(レ…(17入/11/26す/レ1日満へ6/入るやホテル/レ/と泊くま)行おや20/プ行く/
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エルヴィス・アーロン・プレスリー(、1935年1月8日 - 1977年8月16日)は、アメリカのミュージシャン、映画俳優。全世界のレコード・カセット・CD等の総売り上げは5億枚以上とされている、「」の第1位。「キング・オブ・ロックンロール」と称される。ミドルネームは公文書、サイン共にAronだが、墓石にはAaronと表記されている。

概要

1950年代にチャック・ベリーやファッツ・ドミノ、リトル・リチャード、カール・パーキンス、ジェリー・リー・ルイス、ビル・ヘイリーら[9] と共にロック・アンド・ロール(ロックンロール)の誕生と普及に大きく貢献した、いわゆる創始者の一人であり、後進のアーティストに多大なる影響を与えた。その功績からキング・オブ・ロックンロールまたはキングと称され、ギネス・ワールド・レコーズでは「史上最も成功したソロ・アーティスト」として認定されている。1950年代に、アメリカやイギリスをはじめとする多くの若者をロックンロールによって熱狂させ、それは20世紀後半のポピュラー音楽の中で、最初の大きなムーブメントを引き起こした。また、極貧の幼少時代から一気にスーパースターにまで上り詰めたことから、アメリカンドリームの象徴であるとされる。ザ・ビートルズ、ボブ・ディラン、エルトン・ジョン、ボブ・シーガー、ロバート・プラント、フレディ・マーキュリーなど、後に音楽業界で成功したロック・ミュージシャン、特にボーカリストたちが憧れたことでも知られる。

初期のプレスリーのスタイルは、黒人の音楽であるブルースやリズムアンドブルースと白人の音楽であるカントリー・アンド・ウェスタンを融合した音楽であるといわれている。それは深刻な人種問題を抱えていた当時のアメリカでは画期的なことであった。

その後全国的な人気を得たが、保守層には「ロックンロールが青少年の非行の原因だ」と中傷され、PTAはテレビ放送の禁止要求を行うなど、様々な批判、中傷の的になった。KWKラジオではプレスリーのレコード(「ハウンドドッグ」)を叩き割り、「ロックンロールとは絶縁だ」と放送。さらにフロリダの演奏では、下半身を動かすなとPTAやYMCAに言われ小指を動かして歌った。この時には警官がショーを撮影し、下半身を動かすと逮捕されることになっていた。

しかし、プレスリーの音楽によって多くの人々が初めてロックンロールに触れ、ロックンロールは一気にメジャーなものとなった。また、いままで音楽を聞かなかった若年層(特に若い女性)が、音楽を積極的に聞くようになり、ほぼ同時期に普及した安価なテレビジョンやレコードプレーヤーとともに音楽消費を増加させる原動力になった。さらに、音楽だけでなくファッションや髪型などの流行も若者たちの間に芽生え、若者文化が台頭した。晩年はその活動をショーやコンサート中心に移した。1977年8月16日、自宅であるグレイスランドにて42歳の若さで死去した。

プレスリーの記録は多数あり、例えば、最も成功したソロアーティスト、最多ヒットシングル記録(151回)、1日で最もレコードを売り上げたアーティスト(死の翌日)、等がギネスによって認定されている。「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100人のシンガー」において第3位。「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100組のアーティスト」において第3位。「Q誌の選ぶ歴史上最も偉大な100人のシンガー」において第1位。

経歴

生い立ち

プレスリーは1935年1月8日、ミシシッピ州テュペロの小さな家で生まれた。父ヴァーノン・エルヴィス・プレスリー(1916〜79)、母グラディス・ラブ・プレスリー(1912〜58)の3人家族であった(プレスリーには双子の兄弟ジェシー・ガーロン・プレスリーがいたが、誕生時に死亡している)。父ヴァーノンが不渡小切手で服役するなど非常に貧しい幼少時代であったが、両親はエルヴィスを大事に育てた。

熱心なキリスト教プロテスタント(新教)の信者[11] であり、9歳の時に洗礼を受けた。11歳の誕生日にはライフルを欲しがったが、当然母親に却下され、代わりに与えられたのがギターであった。これを機に自宅の地下洗濯部屋で練習し音楽に傾倒していった。

1948年、プレスリーが13歳の時にテネシー州メンフィスへと引っ越した。下宿生活を経て、1949年に一家はメンフィスにあるロウダーデール・コート公営住宅に転居した。メンフィスは非常に貧しい黒人の労働者階級が多かったため、そのような環境の中で黒人の音楽を聴いて育った。エリス公会堂のゴスペルのショーも欠かさずに観に行っていた。ある日、毎回欠かさず観に来ていたエルヴィスだったが、入場料を払えないとの理由で1度欠席した。これに気を留めたのがJ.D.サムナーで「じゃあ次回からは楽屋口から入るといいよ」と告げ、エルヴィスは無料でショーを観ることができた(1970年代のコンサートではJ.D.サムナー&ザ・スタンプス・カルテットをコーラス隊として迎えている)。このことが後のプレスリーの音楽性に大きな影響を与えたとされる。プレスリーは高校卒業後、精密金型会社で働いた後にクラウン・エレクトリック社に転職しトラック運転手として働いていた。

サン・レコード

1953年の夏にプレスリーはメンフィスのサン・スタジオで最初の両面デモ・アセテート盤を録音するため4ドルを支払った。収録曲は当時のポピュラーなバラード と であった。

サン・レコードの創業者サム・フィリップスとアシスタントのマリオン・ケイスカーはその録音を聞きエルヴィスの才能を感じ、1954年6月に行方不明の歌手の代理としてプレスリーを呼んだ。セッションは実り多いものであったかは分からなかったが、サムは地元のミュージシャン、スコッティ・ムーア[12]、ビル・ブラックと共にプレスリーを売り出すこととした。プレスリーは最初「(田舎者の猫)」という名前で歌手活動を始め、その後すぐに歌いながらヒップを揺らすその歌唱スタイルから、(彼に批判的な人々から)「(骨盤のエルヴィス)」と呼ばれた。

1954年7月5日のリハーサル休憩中にプレスリーは[13] をいじくり始め、サムはプレスリーが適所を得たかもしれないと考えて録音ボタンを押した。即興での演奏でドラムスが不在であったため、ベースをかき鳴らしての演奏となった。B面にが収録されたシングルは、WHBQラジオが放送した二日後に、メンフィスでのローカル・ヒットとなった。ラジオを聴いた人たちは黒人歌手だと勘違いしていた。

また、公演旅行はプレスリーの評判をテネシー中に広げることとなった。しかし「初舞台の時には死ぬほど緊張した。観客の声が怖かったんだ」との言葉も残っている。また、プレスリーがツアーをはじめた時、ツアー先の白人プロモーターから「黒人娘(コーラスを務めた“ザ・スウィート・インスピレーションズ”のことを言ったものだが、実際にはもっとひどい差別的な言い方をされた)は連れてこないでくれ」と連絡を受けたことが度々あった。プレスリーは「彼女たちを来させないなら僕も行かない」と言い張り、向こうが謝罪し多額のお金を積んだが、絶対に行かなかった。

このエピソードの様に、公民権法が施行される前の1950年代のアメリカでは、音楽も人種隔離的な扱いを受けている部分が多く残っていた。当時のロックンロールのヒットソングも黒人の曲をパット・ブーンらの白人がカバーし、そのカバー版が白人向けの商品として宣伝され、チャートに掲載され、またラジオなどで流れる傾向にあった。たとえ同じ歌を同じ編曲で歌ったとしても、黒人が歌えばリズム・アンド・ブルースに、白人が歌えばカントリー・アンド・ウェスタンに分類されることが常識だった。プレスリーは、このような状況にあって黒人のように歌うことができる白人歌手として発掘された。

サンとの契約下でプレスリーは5枚のシングルをリリースした。

「ザッツ・オールライト」はビッグボーイ・クルーダップ(アーサー・クルーダップ)のカバーである。多くはリズム・アンド・ブルース、またはカントリー・アンド・ウェスタンのヒット曲のカバーであった。レーベルには「エルヴィス・プレスリー、スコッティー・アンド・ビル」とクレジットされた。10曲の中で最短の曲は1分55秒、最長のもので2分38秒である。

1955年8月18日にプレスリーの両親はプロデューサーのトム・パーカー(通称・パーカー大佐)との契約書に署名し、サン・スタジオとの関係は終了した。

RCAとの契約

プレスリーは1955年11月21日にRCAビクターと契約した。1956年1月28日に「CBS-TVトミー・ドーシー・ステージ・ショウ」にてTVに初出演し、黒人のR&Bを歌う。そこでプレスリーは白人らしからぬパフォーマンスを披露したが、これに対してPTAや宗教団体から激しい非難を浴びせられた。しかし、その激しい非難にもかかわらず、それを見た若者たちは、プレスリーのファンになっていった。

1956年1月27日に第6弾シングル がリリースされた。これは1956年4月にチャートの1位に達した。 はその後数多く登場したミュージシャンに多大な影響を与えた。

レコーディング場所について1950年代はニューヨークにあるRCAスタジオを利用したことがあったが、プレスリーのキャリアにおいて、主演映画の挿入歌以外のレコーディング場所で最も利用されたのはテネシー州ナッシュヴィルにあるRCAスタジオBである。しかし、1972年以降はハリウッドにあるRCAスタジオや地元メンフィスのスタジオを利用した。更に1976年になると、RCAスタッフがプレスリーの自宅(グレイスランド、ジャングルルーム)に録音機材を持ち込み、レコーディングを行った。

後年レコーディング自体に関心を示さなくなったのは、RCAのミキシングやアレンジがプレスリーの意向にそぐわなかったことや良質な楽曲がなくなったこと、コーラスがプレスリーの要求にこたえられなかったこと、体調面など様々な理由があった。

プレスリーは一発撮りと呼ばれる1テイク完成型のスタジオ・ライブ形式のレコーディング・スタイルにこだわった(いくつかのテイクをつなぎ合わせて一つの曲として発表する形式やパートごとの別録りといった選択肢もあったが、プレスリーはそれを嫌い、現在まで発表された曲数が700以上ある中で、そのような形式で発表した曲は少ない)。そのため、プレスリーの死去後現在まで様々な未発表テイクが発掘されており、その中には発表されたテイクと違った趣向のものもある。後年、レコーディングに関心がなくなった頃は、体調不良を訴え、「歌のレコーディングは後で必ずするからミュージックだけ録音しておいてくれ」と言うこともあったが、ほとんどの場合、それは実現しなかった。

1956年12月4日、プレスリーはカール・パーキンス、ジェリー・リー・ルイスがレコーディングしているサン・レコードに立ち寄り、彼らとジャム・セッションを行なった。フィリップスにはもうプレスリーの演奏をリリースする権利はなかったが、このセッションを録音した。ジョニー・キャッシュも共に演奏していたと長い間考えられていたが、フィリップスが撮らせた写真でしか確認することができない。このセッションは伝説的な『ミリオン・ダラー・カルテット』と呼ばれるようになった。年末の『ウォール・ストリート・ジャーナル』一面で、プレスリー関連商品が2千2百万ドルを売り上げ、レコード売り上げがトップであることを報じられた。また『ビルボード』誌で100位以内にランクインした曲数が史上最高となった。音楽業界最大手の1つであるRCAでの最初の1年間、RCAのレコード売り上げの半数がプレスリーのレコードであった。

エド・サリヴァン・ショー

当時のアメリカの国民的バラエティー番組『エド・サリヴァン・ショー』には、1956年9月と10月、1957年1月と短期間に3回出演した。なお、広い視聴者層を持つ国民的番組への出演を意識して、ジャケットを着用し出演した上に、当初保守的な視聴者の抗議を配慮した番組関係者が意図的にプレスリーの上半身だけを放送したというエピソードが伝えられている。

そのようなやり取りがあったものの、司会者のエド・サリヴァンが「このエルヴィス・プレスリーはすばらしい青年です」と紹介したことから、プレスリーへの批判は少なくなった上に、アメリカ全土へのプロモーションに大きく役立ったと言われている。

軍歴

1958年1月20日に、プレスリーはアメリカ陸軍への徴兵通知を受けた。当時のアメリカは徴兵制を施行しており、陸軍の徴兵期間は2年間である。プレスリーは特例措置を受けることなく、他と変わらぬ普通の一兵士として西ドイツにあるアメリカ陸軍基地で勤務し、1960年3月5日に満期除隊した[14]

徴兵命令が来た際、プレスリーは「闇に響く声」を撮影中で、徴兵を少し延期したことでも話題になった。徴兵局はパラマウントからの延期の申し入れに対し、「エルヴィスをよこして頭を下げさせろ」と伝えた。翌日、プレスリーは徴兵局へ出向き、延期の申し入れを行った。

1958年8月11日、戦車兵としての専門教育を受けていたプレスリーは、すでに体調を崩していた母グラディスが緊急入院したとの知らせを受けた。上官はプレスリーからの外出申請をいったんは却下したが、8月12日の外出が許可された。グラディスは8月14日に亡くなり、翌15日に葬儀が営まれた。再び帰営する際、プレスリーはグラディスの部屋を生前の状態に保つよう言い残している。

プレスリーは西ドイツに駐留する第32機甲連隊に配属され、第1中戦車大隊の本部管理隊で勤務した。同地では松濤舘空手を学び、また軍曹まで昇進した。なお空手8段とされているが、それは誤りである。また在籍中、病気にかかり軍の病院において扁桃腺炎だと診断された。その際、医師はプレスリーの声が変調するのを恐れて、扁桃腺の切除手術は行わなかったが、回復し健康を取り戻した。

1960年3月2日、プレスリーは帰国の途に就いた。途中スコットランドを経由しているが、これが彼にとって唯一のイギリス滞在となった。プレスリーは3月3日の朝に帰国して大勢のファンに迎えられ、5日に名誉除隊となった。

映画との関わり

歌手として有名になっていくにつれて、映画配給会社数社から出演の依頼がプレスリーのもとに届いた。プレスリーは大変喜んで、劇場に通いつめ、演技を独学で勉強した。初出演映画にはパーカー大佐がプレスリーを映画の主演にさせたかったので20世紀FOX配給「'」を選んだ。プレスリーはシリアスな演技派を目指していた為、映画内での歌には興味がないと公言していたが、結局パーカー大佐の要請で4曲も歌う羽目になりタイトルも「'」に変更されて公開された。プレスリーは当時のガールフレンドに「映画会社がアホな曲を用意してきたんだよ。せっかくのいいストーリーが台無しになっちゃったよ」と不満を漏らしている。

陸軍入隊前までの1958年までに4作の映画が製作されたが、いずれも挿入歌ありの主演映画に終始し、おまけに映画挿入歌を収めたアルバムが好評だったため、当時のショウビジネスの世界に新たなビジネスの形態を作り出した。1960年に陸軍除隊するとパーカー大佐は配給会社数社と長期に渡り出演契約を結んだ為、1969年まで1年に3本のペースで27本もの映画の製作が行われ、活動の拠点をハリウッドに移さざるをえなかった。おおよその映画は制作費を抑えた挿入歌アルバム付きのものが多かったが、「'」、「'」、「''''(ラスヴェガス万才)」等、話題にはなったが、プレスリーの映画は全体的に評価が低い。評価されたのは「オン・ステージ」「オン・ツアー」など、コンサートをドキュメンタリー的に記録したものだけである。

結局、1956年から1969年まで計31本の映画が公開された中で、プレスリーが望んだ(主題歌以外の)歌のない映画は、1969年公開の「''''(殺し屋の烙印)」のみであった。この映画が製作された頃のプレスリーは1960年代初期と違い、映画への意欲が薄らいでいた時期ではあった(1968年のカムバックを経て、残った契約の消化を急いでいた)が、久しぶりに前向きに臨んだ西部劇で役作りの為にあごひげまではやし撮影された。しかし、プレスリーの主演映画に対する世間の注目度が低かったこと、脚本の出来もイマイチだったことなどが原因で映画の興行成績は振るわなかった。

そういう状況の中、ミュージカル映画の枠を超えていなかったこと、台本の出来の悪さ[26]、また、プレスリーが力を入れて撮影したシーンがカットされたことなど、プレスリーの仕事への不満は募っていき、それが歌手としてコンサート活動を再開するきっかけになった。

歌手活動の本格再開後も、1970年8月のラスベガス公演やリハーサル風景を収めたドキュメンタリー映画「'(エルヴィス・オン・ステージ)」や1972年4月のコンサート・ツアーの模様を収めたドキュメンタリー映画「'(エルヴィス・オン・ツアー)」が製作され、好評だった。それ以降は映画の公開はなかったが、プレスリーの死後の1981年には、ほとんどを生前の映像等で構成したライフ・ストーリー的映画「''''」が公開された。これらを合わせると、プレスリーが主演した映画は計34本となる。

1974年8月19日に、ラスベガス公演中のプレスリーの楽屋をバーブラ・ストライザンドが訪れた。バーブラは自らが主演する映画「''''(スター誕生)」での共演をプレスリーに依頼し、プレスリー自身も非常に乗り気だったと伝えられているが、後日パーカー大佐が出演料を理由に断った。

1970年代半ば、プレスリー自身が起案し出演する空手家が主人公の映画の撮影を行ったが、完成することはなかった。理由の一つとして、プレスリーの体調が悪くなることが多く空手を続けられる状況ではなくなり、空手自体をやめてしまったことが挙げられる。ちなみに、空手の後の太り始めた頃からの趣味はラケットボールで、医師からの勧めで始めた。プレスリーは自宅であるグレイスランドの敷地内に専用コートを建てた。亡くなる1977年8月16日の早朝も友人たちとプレーし、汗を流した。

ビートルズとの会見

プレスリーとビートルズは直接的な接点はなかったが、両者は1965年8月27日、ロサンゼルスのプレスリーの邸宅で一度きりの会見を果たしたことがロック史に残る出来事として語られている。

ビートルズのマネージャーであるブライアン・エプスタインとパーカー大佐の間での「極秘の打ち合わせ」という名目だったが、どこからか漏れてしまい、案の定自宅周辺には野次馬が集まった。

諸説あるが、メンバーのジョン・レノン、ポール・マッカートニー、ジョージ・ハリスン、リンゴ・スターは平静を装いながらも、心を躍らせて招かれた部屋に入った。そこでエルヴィスはテレビを見ながらベースを練習してくつろいでいた。「本物のエルヴィスだ」と感激した4人は呆然としてしまった。そこでプレスリーが「ずっとそうやって僕を見てるだけなら僕はもう寝るよ?せっかく演奏ができると思って待ってたのに」と声をかけた事から、慌てて4人は挨拶し、即興演奏が始まった。プレスリーはベースを演奏し、レノンとハリスンはギター、マッカートニーはピアノを演奏した。スターはドラムキットが無かったため演奏しておらずビリヤードやサッカーを楽しんでいたという。

プレスリーは彼らの曲も歌い、そのあとで「君たちのレコードは全部持ってるよ」と言った。これに対してレノンは「僕はあなたのレコードは1枚も持ってないけどね」と発言したことからその場が凍りついた。これはレノンの若気の至りとも、過激なジョークだったとも言われるが、プレスリーはその発言に気分を害してしまった。そしてその会見に実際に立ち会ったという記者のクリス・ハッチンスによれば、レノンはさらに当時アメリカ軍による関与が拡大を続けていたベトナム戦争にプレスリーが賛同する姿勢と、プレスリーのマンネリ気味であった映画を痛烈に批判した。これらの事がきっかけでレノンを嫌うようになったプレスリーは(事実上)マッカートニーやハリスンの曲はコンサートで頻繁に取り上げているが、レノンの曲は取り上げていない[27]

この様に、レノンの発言と態度が場の雰囲気を壊したことで、この会見はとても成功したとは言えないものであった。

レノンはこの発言を反省したためか後日プレスリーの取り巻きに「エルヴィスがいなければ今の自分は居ない」と伝えるよう頼んだという。しかしプレスリーはレノンがアメリカに住むようになり、ベトナム反戦運動を積極的に行っていた頃、ニクソン大統領に「ジョンを追放してほしい」と手紙を出したとも言われている。

結婚そして離婚

1967年5月1日には、ラスベガスのアラジン・ホテルでプリシラ・アン・ボーリューと結婚。プリシラはプレスリーの駐西独アメリカ軍での所属部隊長の継子であった。プレスリーは未成年であったプリシラを自分の父親とその妻の家に同居させ、有名なカトリックの女子高に通わせて、きちんと卒業させるということをプリシラの母親と継父に約束してプリシラをメンフィスで暮らせるようにした。しかし、程なく2人はグレイスランドで一緒に暮らすようになっていく。8年後に結婚し、1968年2月1日には娘リサ・マリー・プレスリーが生まれる。

その4年後、結婚前から続いているプレスリーの生活習慣(昼と夜が逆転した生活)、メンフィス・マフィア(エルヴィスの取り巻き)といつも一緒の生活、さらに年間何ヶ月にも及ぶコンサートツアーによる別居生活などのさまざまな理由から、プリシラは空手教師のもとに走り、2人の結婚生活は破綻してしまう。グレイスランドを出たプリシラはリサ・マリーを引き取り、ロサンゼルスに住居を移す。1973年10月9日に正式離婚。

離婚後もプレスリーとプリシラは友人関係にあり、以前よりも密に連絡を取り合うようになったという。プレスリーがツアーでロサンゼルスにいるときは、プリシラの家を訪れたり、なにか事あるごとにプリシラをグレイスランドに呼び寄せたりして精神的にプリシラを頼りにしていた。二人は、リサ・マリーがまだ幼かったこともあって、2人が離婚したことでリサが不幸にならないようにと願っていた。リサとプレスリーは頻繁に会っていたようだ。プレスリーが死んだその日もリサはグレイスランドにいた。

60年代、70年代の音楽活動

プレスリーの音楽活動は62年の「好きにならずにいられない」までは好調を保っていたが、63年から68年ごろまでは絶不調と言ってよい状態だった。量産された映画とビートルズの登場に押された影響は否定できず、プレスリー自身もそれを自覚していた。不調の時代では65年の「クライング・イン・ザ・チャペル」が彼らしい佳作だった。68年のTVライブで復活したエルヴィスは69年に「サスピシャス・マインズ」[15]、「イン・ザ・ゲットー」を発売し、カムバックした。1969年から過密スケジュールでキャリアを再開。しかし、それはプレスリーを完全なワーカホリック状態へと追い込むものであった。1969年以降行ったライヴは1000回以上であり、平均すると1年におよそ125回のペースだった。

1969年よりネバダ州のラスベガスを中心にショーを行うようになっていた。プレスリーのコンサートは時代を経て、大規模なものになっていった。瞬間最高視聴率約72%を記録した1968年のNBC-TVスペシャル以後、翌年にラスベガスのステージで歌手復帰してからは、ロックンロール以外にもレパートリーの幅を拡げ、ゴスペルやスタンダード・ナンバー等を取り入れた。バックもコーラス・グループやピアノ等が新たに加わり、オーケストラまで揃えた多人数の団体に膨れ上がった。なお派手な衣装は、リベラーチェからの影響と言われている。

また、ラスベガスのステージ編成をそのまま地方公演に取り入れた。コンサート活動再開後、最後にコンサートを行った1977年6月26日インディアナポリス公演までチケットは売り切れ状態が続いた。72年には「バーニング・ラヴ」が大ヒットとなった。70年代には他に「アメリカの祈り」「ロックンロール魂」などを発売した。1977年8月17日から始まる予定だったツアーも最終日の8月27日のメンフィス公演まで売り切れ、翌28日に同地で追加公演を行う予定だった。

リチャード・ニクソンとの面会

エルヴィス・プレスリー
リチャード・ニクソン 大統領とエルヴィス・プレスリー(1970年)
1970年12月21日には、わざわざアメリカン航空の民間機でワシントンD.C.にジェリー・シリングと2人で出向き(普段は自家用機しか乗らない)、シークレット・サービスに手紙を手渡した。一市民であるプレスリーから大統領にあてた手紙である。

ホワイトハウス内は大騒ぎとなり、その40分後補佐官から「大統領が会いたい」と電話があった。ホテルに到着したデル・ソニー・ウェストが合流し3人でホワイトハウスへ行き、リチャード・ニクソン大統領に会った。ツーショット写真はその際撮影されたものである。

この時プレスリーは、自分は「ドラッグ・カルチャーと、共産主義の洗脳について研究してきた」[16] とニクソンに語った。麻薬撲滅に熱心であったニクソン大統領に対して、「ロックが麻薬使用に影響しているとは思わないが、責任は感じている」といい、麻薬取締官の資格を与えられた。翌週、プレスリーはそのバッジをみんなに見せびらかせて回った。なお、プレスリーは警察官等のバッジ・コレクションをしており、大変な収集家であった。

この際のエピソードはあまりにも有名なものとなり、後にこのエピソードだけでいくつかの映画になったほか、プレスリーとニクソン大統領とのツーショット写真は、ホワイトハウスの公用写真の焼き増しサービスの中で最も人気が高いものとなった。

トム・パーカー大佐

プレスリーは世界的なスーパースターとなったが、終生アメリカ、カナダ以外でコンサートを行っていない。海外での公演ができなかった理由は、移民であるパーカー大佐がアメリカの永住権を所持しておらず、カナダを例外としてアメリカ国外へいったん出国すると再入国を許されない事態を恐れた為だったと言われている。ちなみに、パーカー大佐が出身国に残してきた家族が、大佐がプレスリーに付き添う姿をテレビで見て仰天したという逸話が残されている。

これに対して、パーカー大佐は世界の公演希望に応えるため、衛星中継という方法で、生のプレスリーを世界へ送った。来日公演の要請に対しては、日本のゴールデンタイムに衛星生中継で視聴してもらえるよう、1973年1月14日に、ハワイ時間深夜1時からコンサート『アロハ・フロム・ハワイ』を開催する形で応えた。これは日本のゴールデン・タイム(午後7時)にあわせたものである。放送は約2時間続いた。

このコンサートはプレスリーの愛唱歌でもあった「アイル・リメンバー・ユー」の作者、クイ・リーの遺族らによって創設された“クイ・リー癌基金”のためのチャリティー・コンサートとして開催された為収益は全て、クイ・リー癌基金へ寄付された。この公演のチケットには値段が付いておらず、客が献金したい分だけ払えば、購入することが出来た。6000席の会場で7万5000ドル集まったので、1人あたり12ドル50セント支払った計算になる。

アメリカでは公開中だった『エルビス・オン・ツアー』と競合することを回避するために、4月4日に放送された。新たにハワイのビーチや挿入歌がインサートされた、生放送とは別の編集版であった。既にこのコンサートのライヴアルバムが発売されていたにもかかわらず、この放送を視聴した世帯数は、人類初の月面着陸の映像を視聴した世帯数より多かった[afpbb.com]

「プレスリーの離婚の財産分与の資金捻出のため」という名目でパーカー大佐はプレスリーの楽曲の権利をRCAへ売り渡した。これは将来的に見ても大損な取引だったが、パーカー大佐自身がギャンブルで大損を出していたため、手っ取り早く大金を得るためにプレスリーに伝えないで独断で売った。離婚に必要な資金は175万ドルでエルヴィスならすぐに回収できるであろう金額だった。プレスリーがお金がなくなっていったのはこの権利で手に入る印税を受け取れなかったことが関係している。プレスリー関係者からは「悪名高き73年の取引」といわれている。

この様な理由以外にも、プレスリーはパーカー大佐に対する不満をメンバーたちに多く漏らしていた。しかし、プレスリーは生涯パーカー大佐をクビにすることはなかった。ネルソン・ジョージは、「マネージャーのトム・パーカー大佐がプレスリーをどんどん安物のクズにおとしめていった」と評している[17]

死と埋葬

エルヴィス・プレスリー
プレスリーの墓
1977年8月16日にテネシー州メンフィスの自宅、グレイスランドで没した。ガールフレンドのジンジャー・アルデンによって寝室のバスルームの床に倒れているところを発見され、バプテスト記念病院へ搬送されたが、医師は午後3時30分、プレスリーの死亡を確認した。歳没。検視後、死因は処方薬の極端な誤用による不整脈と公式に発表された[28]

晩年、プレスリーはストレスからくる「過食症」に陥ったことが原因で体重が激増したことに加え、1975年頃からは主治医だったジョージ・ニコポウラスから処方された睡眠薬などを「誤った使い方」で服用していた。「処方ドラッグをやっていた」とグレン・D・ハーディンなどのメンバー、さらにデル・ソニー・ウェストなどのメンフィス・マフィアのメンバーたちも語っている。

グレンは詳しいことは死ぬまで語るつもりはないといっているが、ソニー・ウェストは暴露本を書いて中傷したとされた。このことについてソニーは「まだ存命中だったエルヴィスを救うためだった」と述べた。違法なドラッグは一切使用していないが、この処方ドラッグの影響で癇癪持ちになり、体調も維持できなくなってしまった。 イギリスのテレビ局、チャンネル4はプレスリーのDNAに、肥満や心臓疾患を引き起こすものが発見されたと報道した[18]

当初はメンフィスのフォレスト・ヒル墓地で母親の隣に埋葬されたが、遺体の盗掘未遂事件後に、母親と共にグレイスランドに再埋葬された。グレイスランドには、プレスリーの様々な遺品やピンクや緑に塗られたキャディラック、愛娘の名前をつけた自家用機、コンベア880型「リサ・マリー号」などが展示されており、現在も世界中からファンや観光客が訪れている。スコティ・ムーアは「エルヴィスの葬儀は見世物ショーになるだろう」と感じ、式に出席しなかった。

死後

プレスリーの急死後、その肖像権は非常に危うい位置にあった。プレスリーはステージ以外の事は人任せで、肖像権は一応管理されていたが杜撰だったため、金儲けの道具とされ、プレスリーのイメージを損なうものであっても簡単に商品化できた。

存命中にはプレスリーは多くの「名義貸し」のつもりで契約書にサインしていたが、相手は「エルヴィスが利益になる」と考え、膨大な予算をプレスリーに用意させようとした(ソニー・ウェストの暴露テープに電話の内容が記録されている)。

死去後まもなくして遺族らが膨大なプレスリーの物的財産を管理する組織を結成、肖像権も管理しようと訴訟を起こした(当時、亡くなった人々の肖像権の取り扱いは帰属等がはっきりしていなかった)。遺族らは勝訴し、肖像権を手に入れ、以後今日までしっかりと管理されている。

肖像権が管理できるようになって、「エルヴィス・プレスリー」という名を使い現在まで様々なプロジェクトを世界に向かって発信してきた。プレスリーのキャリアはサン・レコードからデビューした1954年から死去する1977年である。本業の歌の部門では、数多くの未発表テイクが発掘されている。

最近の話題だと新編集された曲が2002年のFIFAワールドカップの公式テーマソングになったり、未発表映像も発掘され、1968年のTVスペシャルや1973年のアロハ・フロム・ハワイのアウトテイクを収録した完全版がリリースされ好評となった。その他、側近や友人、家族らが語るプレスリーの人物像に焦点をあてた物や、プレスリーのゴスペルに対する思いを映像化した物もある。

エルヴィス・プレスリー
エルヴィスの物まねタレント
それ以外にもプレスリーをモチーフにした映画の製作やプレスリーの曲が数多くの映画の挿入歌に使用される事も多い。プレスリーに因んだセリフも数多くの映画の中で聞くことが出来る。ブロードウェイのミュージカルにも取り上げられる等、そのような話題はとどまる事を知らない。プレスリーの記録であるナンバー1ヒット曲数18曲が、2019年マライア・キャリーの19曲によって更新された。

死後、ロニー・マクドウェルは「キング・イズ・ゴーン」を発表した。あまりにエルヴィスに似ていることと、歌のうまさはおおいに話題となった。プレスリーの物まね、または成りきる(演じる)事を生業とする人々が世界に存在し、その数は8万5000人と言われている[afpbb.com]。また、エルヴィスを尊敬するアーティストも多く、そのようなアーティスト達が一堂に会したトリビュート・コンサートが実現した。

更に1997年には新たなる試みとして、プレスリーのコンサート映像を使用し、それにあわせて当時のバンド・メンバーが演奏する(現:)のメンフィス公演が行われ、以後全米各地のほか、ほぼ年に1回のペースでアメリカ以外の地域でツアーを行っている。

彼の死後、プレスリーの生存説、目撃情報などの滑稽な陰謀論やオカルト話が「ウィークリー・ワールド・ニューズ」「東京スポーツ」などを中心に相次いで報告された。年をとったプレスリーを見たという証言がある一方、若い頃そのままのプレスリーを見たという証言もある。プレスリーが生きているという確実な証拠には300万ドル(約3億4000万円)が支払われる。

出演作品

32本の映画出演作(ドキュメンタリーは除いて)全てが主役という驚異的な記録を残している。

世界に与えた影響

エルヴィス・プレスリー
グレイスランド(Graceland)
ヨーロッパにおいて、ロックンロールという新しい音楽への興味を生じさせた。ジョン・レノン、ボブ・ディラン、ポール・マッカートニー、エルトン・ジョン、ボブ・シーガー、フレディ・マーキュリー、ルー・リード[19]、クリフ・リチャード、ロバート・プラント、ブルース・スプリングスティーンなどをはじめとする多くのアーティストが大きな影響を受けた。

ジョン・レノンとエリック・カルメンは、ヴォーカル・スタイルにおいても影響を受けている。ZZトップ、チープ・トリック、ジョン・シュナイダーらはエルヴィスの曲をカバーした。ロバート・ゴードン、タフ・ダーツ、ストレイ・キャッツ、ブラスターズらもエルヴィスの影響を受けていた。

日本では湯川れい子、小林克也、小泉純一郎、西田敏行らがプレスリーのファンである。歌手では平尾昌晃、山下敬二郎、ミッキー・カーチス、坂本九、ささきいさお、西郷輝彦、本郷直樹、大瀧詠一等もプレスリー・ファンとして知られる。

世界中のティーンエイジャーは、プレスリーの「ダックテール」と呼ばれる横髪を後ろへなで付けるヘアスタイルをこぞって真似し始めた。そして、黒いズボンや緩い開襟シャツといったプレスリーのニュールックは、ファッションの新たな潮流を作り、その大きな需要を生み出した。プレスリーの影響は、経済大国における大量消費を行う最初のティーンエイジャー世代を生み出した。エルヴィス・プレスリーを慕うミュージシャンに、ドイツのオペラ歌手ペーター・ホフマンらがいる。

1977年にジミー・カーター大統領は「エルヴィス・プレスリーの死は、我が国から大事な一部分を奪いとったようなものだ。彼の音楽とその個性は白人のカントリー音楽と、黒人特有のリズム・アンド・ブルースのスタイルを融合させ、永久にアメリカの大衆文化の様相を変えてしまった。彼は、祖国アメリカの活力、自由、気質を世界の人々に植え付けるシンボルだった。」と語った。ジェームズ・ブラウンは「彼は白人のアメリカ人に目線を下げるということを教えた」という言葉を書き残している。

アメリカ内務省のゲイル・ノートン長官は2006年3月27日、プレスリーが約20年間を過ごした、テネシー州メンフィスの邸宅「グレイスランド」を国の国定史跡に認定した。認定の式典は一般公開で行われ、娘であるリサ・マリー・プレスリーも出席した。

性格、嗜好

衣装関係

1970年代のプレスリーは真っ白なジャンプスーツが思い出されるが、それ以外にも紺や青、水色、赤などのジャンプスーツも着ている。1970年初期のジャンプスーツは動きやすさを念頭に置いたシンプルな衣装であった。それがどんどん派手になっていき、ケープまで登場した。金やダイヤモンドやルビーなどを施したジャンプスーツは25kg以上にもなっていた。

前述のように、これは敬愛していた著名なピアニストであるリベラーチェからの影響を受けたものであった。ただし、プレスリーは宝石類にはあまり興味がなく、ステージ上で華やかに見えるものなら安いイミテーションでも構わないという性格だった。

飲食等

酒も煙草もやらない。たまに葉巻を吸う程度である。「オン・ステージ」で観客から酒を渡された時も、口を付けるだけでほとんど飲んでいない。ステージ上で飲んでいるものは水かゲータレードである。

コーヒーや炭酸飲料、「ピーナッツバターとバナナとベーコンのサンドイッチ」が大好きで、毎日のように食べていた。今ではこのサンドイッチは「エルヴィスサンド」と呼ばれている。ただし、このサンドイッチは食べる前に多量のバターを溶かしたフライパンで揚げ焼きにしたもので、当然ながら高カロリーなため、プレスリーが30代以降体調を崩し、肥満化していった一因になったのではないかという指摘もある。

交友関係

メンバー等

家族

エピソード

メンフィス

グレイスランドの前の通りはエルヴィス・プレスリー・ブールバード(大通り)という。世界中のプレスリーのファン、ファンクラブからの募金のみで運営しているセイント・パウロ・エルヴィス・プレスリー記念病院がある。

主な使用楽器

; マーティンD-18 : デビューから徴兵までコンサートで使い続けていたギター。RCAファースト・アルバムのジャケット写真(1955年フロリダ公演)など弦が切れた状態で演奏されていた。また、カントリー・ミュージシャンが使っていた革のギター・カバーを被せて使用した。ブリッジ・ピンを何度も紛失している。 : 1969年のステージ復帰後、長らくギブソン製を使っていたが、1977年のツアーで新品のD-18で演奏している。あまり弾きやすいギターではなかったようで、側近のレッド・ウェストとの電話で「新しいマーティンのギターが弾きにくい」と愚痴をこぼしている。 ; マーティン D-28 : 主にテレビ・ショウで使用された。ドーシー・ショウやミルトン・バール・ショウで使用。 ; ギブソン・J-200 : 映画「さまよう青春」、「闇に響く声」などで使用された。ボディが大容量なため、大音量が出せる。1968年のTV番組「エルヴィス」ではシット・ダウン・ショウで使用。 ; ギブソン・J-200(特注品) : 1960年にプレスリーが特注で作ったギターで、プレスリーがデザインした幾何学的なピックガードを装着していた。また、指板にはELVIS PRESLEYとインレイが施されている。1969年の公演再開から1971年までステージで使い続けた。「エルビス・オン・ステージ」でも確認できる。ストロークが激しいため、ギター上部(ピックガードの反対側)はピックで塗装面がかなり削れてしまっている。 ; ギブソン・ダヴ(特注品) : 1971年からJ-200に代わって使用したギター。J-200と違い、スクエア・ショルダーとなっていて、角ばったデザインが特徴。DOVEという名称の由来のピックガードの鳩のプリントは無い、オール・ブラックのモデル。ピックガードは白とのプライ加工されており、縁取りが見えるようになっている。また、指板には筆記体でElvis Presleyとインレイが施されている。さらにアメリカ・ケンポー・カラテ協会のステッカーを貼っていた。 ; ギブソン・ハミングバード : 75年から76年にかけて使用していたギター。ピックガードにハチドリのプリントが施されている。ダヴと同じくスクエア・ショルダー・タイプ。 ; ギブソン・EBS-1250 : 6弦ベースと6弦ギターのダブルネックのモデル。通常のEBS-1250はドットインレイだが本モデルはレスポールやSGのような台形のインレイを採用した。アコギの様にヘッドにストラップを付けて映画「カリフォルニア万才」で使用。 ; ハグストロム・ヴァイキングII : テレビ・ショウの「エルヴィス」で使用したギターでワイン・レッドのモデル。スウェーデン製。非常に硬質で特徴的な音色。オープニング、スタンド・アップ・ショウなどで使用されたが、プレスリーの所有物ではなく、テレビ出演に当たって借り受けたもの。 ; グレッチ 6122 カントリー・ジェントルマン : 69年から70年まで公演で使用したギター。チェット・アトキンスのシグネイチャー・モデルである。ホロウボディだがFホールはペイント。ドキュメンタリー映画「エルビス・オン・ステージ」のMGMリハーサル撮影の合い間にも使用している。同映画に収録されたインターナショナル・ホテルでの公演でも使用。公演ではイスに座り、このギターを弾きながら歌った。 ; フェンダー・プレシジョンベース(オリジナル・プレシジョン・ベース) : 1957年5月3日、映画「監獄ロック」の劇中曲「ベイビー・アイ・ドント・ケア」を収録中に使用。ベーシストのビル・ブラックはウッドベース奏者であり、与えられたエレクトリック・ベースを上手く扱うことができず、怒ってスタジオを出て行ってしまった。そこでプレスリーが投げ出されたこのプレシジョン・ベースを弾いた。1957年にリニューアルされる前の仕様。

記録

プレスリーの記録には限りがないが、代表的なものや、興味深いものを挙げる。

ギネス・ワールド・レコーズ編

統計、評論家などによる投票

; ロックの殿堂(エルヴィス・プレスリー/米1986年) : 1986年、アメリカで始まったロックの殿堂は、ロック史上優れたアーティストやプロデューサーを登録している。プレスリーは第1回目で選ばれた。 ; UKミュージック・ホール・オブ・フェイム(エルヴィス・プレスリー/英2004年) : 2004年、イギリスで始まった、UKミュージック・ホール・オブ・フェイム(音楽の殿堂)は、音楽史上優れたアーティストやプロデューサーを登録している。プレスリーは第1回目で選ばれた。2007年、この殿堂は資金不足のため、廃止された。 ; カントリーの殿堂(エルヴィス・プレスリー/米1998年) : 1998年、カントリー・ミュージック教会により、カントリーの殿堂入りを果たした。伝統的な同教会が認めたことは、プレスリーの音楽の真価を証明するものだった。9月23日、テネシー州、ナッシュビルのグランド・オール・オープリー・ハウスで授賞式が行なわれた。 ; ゴスペルの殿堂(エルヴィス・プレスリー/米2001年) : 2001年、ゴスペル・ミュージック教会により、ゴスペルの殿堂入りを果たした。11月27日に、テネシー州、フランクリンのピープルズ・チャーチで授賞式が行われた。ちなみにロックとカントリー、ゴスペルの3つの殿堂入りを果たしたのは、プレスリーとジョニー・キャッシュだけである。 ; 世界の音楽を最も変えた曲(エルヴィス・プレスリー/That's All Right) : イギリスの雑誌『Q』によって発表。音楽のジャーナリスト達の投票により決定。プレスリーの音楽の始まりであり、ロックの原点とも言われる曲「ザッツ・オール・ライト」が、「音楽と世界を永遠に変えた革新的な100曲」の第1位に選ばれた。2位はビートルズの「I Wanna Hold Your Hand」。 ; 死後、最も売り上げが多いアーティスト(エルヴィス・プレスリー) : 経済誌「Forbes」により毎年(10月下旬)発表。死んだ著名人の1年度の売り上げを順位付けしたものである。2001年から発表が始まり、プレスリーは2005年まで5年連続1位に輝いた。2006年は、カート・コバーンの著作権が売却されたことにより2位になったが、翌2007年には4900万ドル(約56億円)で再び首位を奪回し、2008年度も5200万ドル(約51億円)で1位になった。毎年大体50億〜60億あたりの売り上げを誇っている。 ; イギリスで最もヒットしたアーティスト(エルヴィス・プレスリー) : 「The Book Of British Hit Singles & Albums」が発表。プレスリーが「イギリスで1番売れたアーティスト・トップ100リスト」の第1位になった。1952年からのチャート・イン週間数の総計を基準としたものである。毎年発表される。上位にはクイーンやクリフ・リチャードらがいる。

雑誌や一般による投票

; ロック史上最高の服装(エルヴィス・プレスリー/白いジャンプ・スーツ) : 約1万2千人の音楽ファンによって投票。「最高のロック・アウトフィットtop10」での投票で、プレスリーの「白いジャンプ・スーツ」が、ロック史上最高の服装として歴代第1位に選ばれた。2位は、カイリー・ミノーグの「ゴールドのホット・パンツ」。 ; 最もサインに価値があるロック・ミュージシャン(エルヴィス・プレスリー) : カリフォルニア州のサイン専門誌「Autograph Magazine」により発表。最もサインに価値のあるロック・ミュージシャン第1位に、プレスリーが選ばれた。2位はビートルズのポール・マッカートニー。

ディスコグラフィ:アルバム

公式リリース音源の数は800曲を超える。

Follow That Dreamレーベル

プレスリーがそのキャリアにおいて発表した曲の未発表テイクが数多く存在するが、プライベート録音を含め、すべての残されたプレスリーの音源を聴きたいというファンの要望に応えるべく立ち上げられたのが、主演映画のタイトルから引用したレーベルである。

このレーベルのアルバムは限定生産され、世界中のファンクラブに優先的に流通させるので一般のCDショップ等に出回りにくい。1999年に第一弾 ''''(1968年のNBC-TVスペシャルのリハーサルの模様を収録)がリリースされた。以後、定期的に貴重な音源が次々とリリースされている。わずかだが一つの曲のすべてのテイクを聴くことが出来たり、コンサートアルバムはプレスリーのコンサートを体験することが出来なかったファンにも追体験出来るような内容になっている。

オリジナルアルバム

発売年アルバムタイトル最高位RIAA
US CountryUSUK
1956エルヴィス・プレスリー登場!() 1 1 Gold
エルヴィス() 1 3 Gold
1957エルヴィス・クリスマス・アルバム() 1 2 3× Multi-Platinum
1960エルヴィス・イズ・バック() 2 1 Gold
心のふるさと() 7 13 3 Platinum
1961歌の贈り物() 1 2 Gold
1962ポット・ラック() 4 1
1967ゴールデン・ヒム() 7 18 11 2× Multi-Platinum
1969エルヴィス・イン・メンフィス() 2 13 1 Gold
1970バック・イン・メンフィス()
1971エルヴィス・カントリー() 6 12 6 Gold
ラヴ・レター・フロム・エルヴィス() 12 33 7
初めてのクリスマス() 13 3× Multi-Platinum
1972エルヴィス・ナウ() 45 43 12 Gold
至上の愛() 32 79 38 Platinum
1973フール() 8 52 16
ロックン・ロール魂() 50
1974グッド・タイムス() 5 90 42
1975約束の地() 1 47 21
エルヴィス・トゥデイ() 4 57 48
1976メンフィスより愛をこめて() 1 41 29 Gold
1977ムーディ・ブルー() 1 3 3 2× Multi-Platinum

ライブ・アルバム

発売年タイトル最高位RIAA
US
1968エルヴィスNBC TVスペシャル(Elvis NBC-TV Special) 8 プラチナ
1970エルヴィス・オン・ステージVol.3(Elvis in Person at the International Hotel) ゴールド
エルヴィス・オン・ステージVol.2(On Stage: February 1970) 13 13 プラチナ
エルヴィス・オン・ステージVol.1(That's the Way It Is) 8 21 ゴールド
1972エルヴィス・イン・ニューヨーク() 22 11 3× マルチ-プラチナ
1973エルヴィス・イン・ハワイ() 1 1 5× マルチ-プラチナ
1974ライヴ・イン・メンフィス() 2 33 ゴールド
1977エルヴィス・イン・コンサート′77() 1 5 3× マルチ-プラチナ
1997アフタヌーン・イン・ザ・ガーデン(An Afternoon in the Garden)
1998アロハ・フロム・ハワイ(Aloha From Hawaii - Via Satellite)
タイガーマン〜NBC・ライヴ 1968(Tiger Man)
メモリーズ〜'68カムバック・スペシャル(Memories: The '68 Comeback Special)
1999エルヴィス・ザ・コンサート〜1999ワールド・ツアー(Concert 1999 World Tour)
2001グレイテスト・ヒッツ・ライヴ(The Live Greatest Hits)
エルヴィス・ライヴ・イン・ラスベガス(Live In Las Vegas)
2007VIVA LAS VEGAS グレイテスト・ラスヴェガス・パフォーマンス(Elvis: Viva Las Vegas) 54
200868カムバック・スペシャル・ボックス 40周年記念エディション(The Complete '68 Comeback Special: 40th Anniversary Edition)
2012エルヴィス・イン・ニューヨーク 40周年記念エディション(Prince from Another Planet) 187

シングル・ディスコグラフィー

プレスリーが1977年に亡くなるまでの21年間に、146曲が100位以内に、112曲が40位以内に、72曲が20位以内に、38曲が10位以内にチャートインした。1962年4月21日から2週連続で1位を獲得した「グッド・ラック・チャーム」を最後にプレスリーは1位から遠ざかったが、1969年11月1日、「サスピシャス・マインド」が1位を獲得し、「プレスリーの復活」と言われた。1972年10月28日には「バーニング・ラヴ」が2位まで上り詰めたが、チャック・ベリーの「マイ・ディンガリング」(1972年10月21日から2週連続1位)に阻止された。

1970年代においてはプレスリーは一度も1位を取ることはなかったが、2002年にリメイクされた「ア・リトル・レス・カンヴァセーション」は世界24カ国でナンバー1を取得した。アメリカにおいて1位を獲得したシングルの数は18作〈計79週間〉で、ビートルズの20作〈計59週間〉、マライア・キャリーの19作〈計82週間〉に次ぐ歴代3位の記録となっている(Billboard誌に準拠)。

ロックン・ロール(1986年殿堂入り)、カントリー(1998年殿堂入り)、ゴスペル・ミュージック(2001年殿堂入り)の3部門のいずれも殿堂入りした初のアーティストとなった。また、今のところ楽曲においては3回(通算5回)グラミー賞を受賞しているが、3回ともロック部門ではなくゴスペル部門においての受賞であり、プレスリーは終生この事を誇りにした。

全米ナンバー1獲得曲

ナンバー1ヒットは全18曲、合計79週間である。曲数はビートルズ、マライア・キャリーに次ぐ歴代3位である。週間数に関してはマライア・キャリーに次ぐ歴代2位である。()

その他

プレスリーを扱った作品

プレスリー本人が描かれた作品

プレスリーに関連した作品

日本語文献

: ※近年刊行の一部。

脚注

[]

関連項目

外部リンク